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桑山古墳群 津山市高尾・平福

更新日:2020年3月13日更新

 

その4(令和2年3月13日更新)

 今年度の桑山古墳群の調査は2月で終了しました。今回は、特徴的な子どもの埋葬が見つかった桑山3号墳についてご紹介します。
 桑山3号墳は直径約10mの円墳で、横穴式石室をもつ1・2号墳より斜面のやや上方に位置しています。埋葬施設は箱式石棺と木棺の二つが見つかりました。土層の観察から、まず墳丘を構築する初期段階で箱式石棺が、墳丘の完成後に木棺が埋葬されたことが分かっています。
 箱式石棺は、長さ約95cm、幅約30cmと小ぶりで、棺内からはおよそ50個の多様な玉を連ねた首飾りを着けた3~4歳前後の子どもとみられる人骨が出土しました。その脇には鹿角〈ろっかく〉製の把〈つか〉を装着した鉄刀が二振り、足下には19本の鉄鏃〈てつぞく〉が置かれていました。岡山県内全体をみても、子どもの埋葬でこれほど多量の武器類をもつ例は少なく貴重です。
 木棺は長さ約3.2m以上、幅約1.2m以上の穴のなかに納められ、棺の長さは約2mと推定されます。棺の大きさからこちらは大人の埋葬と思われますが、箱式石棺とは異なり遺物は全く出土しませんでした。
 このように、桑山3号墳では対照的な二つの埋葬が見つかりました。特に古墳を作るきっかけとなったのが子どもの埋葬であること、そして子どもの埋葬に多量の武器と玉が伴っていることは、葬られた子どもの特別な地位を示していると考えられます。

桑山3号墳の箱式石棺
桑山3号墳の箱式石棺

箱式石棺に収められた副葬品
箱式石棺に収められた副葬品

その3(令和元年12月6日更新)

 今回は桑山1号墳を紹介します。
 直径約18m、高さ約3mの1号墳は、片袖式の横穴式石室が築かれた円墳です(写真1)。

石室全景(奥壁側から)
写真1 石室全景(奥壁側から)

   石室の規模は、遺体を安置する玄室〈げんしつ〉が長さ約3.3m、幅約1.8m、遺体を運び込む通路である羨道〈せんどう〉が長さ約3.3m、幅約80cmを測ります。石室内は大規模に攪乱〈かくらん〉を受けていましたが、玄室袖部から須恵器の杯身〈つきみ〉・杯蓋〈つきぶた〉・長頸壺〈ちょうけいこ〉・提瓶〈ていへい〉、鉄製の石突〈いしづき〉(鉾〈ほこ〉などの柄の末端に付ける金具)が(写真2)、奥壁際から鉄鏃が出土したほか、攪乱土から琥珀〈こはく〉製棗玉〈なつめだま〉などが見つかりました。石室入口の墓道から出土した珍しい形の把手付高杯(写真3)は、埋葬後に墓道で行われた祭祀に使用されたものと考えられます。

袖部遺物出土状況(北東から)
写真2 袖部遺物出土状況(北東から)

墓道出土高杯
写真3 把手付高杯

  

その2(令和元年9月18日更新)

 桑山古墳群(計4基)では1・3・4号墳の発掘を進めています。JR津山線と国道53号線を東に見下ろす丘陵上にある桑山古墳群の中でも、最高所に位置する桑山4号墳からは、北東方向に津山市街地の一部を遠望できます(写真1)。
 この桑山4号墳は、6世紀中頃に造られた直径約10mの円墳で、ほぼ南北に主軸を置く二つの竪穴式石室が東西に並んで見つかりました。
 東側の石室からは、木棺を置く棺台の石が見つかりました。北の棺台に接して須恵器〈すえき〉の杯〈つき〉と蓋が伏せた状態で出土しており、被葬者の枕だと思われます(写真2)。またその周辺では首飾りに使われた管玉とガラス小玉、水晶で作られた算盤〈そろばん〉玉が見つかりました(写真3)。
 西側の石室では、床に石が敷かれ、南北両端に須恵器の杯と壺が置かれていました。また、石室の東壁にそって刀と小型のナイフである刀子〈とうす〉が並び、その南側では鏃〈やじり〉が多数出土しました(写真4)。
 桑山4号墳の特徴は、玉が出土した東側の石室では武器が無く、武器を持つ西側の石室では玉が見つかっていないことです。これは埋葬された人物の職種の違いや性別を反映している可能性があります。

桑山4号墳の石室と津山市街地の遠望(南から)
写真1 桑山4号墳の石室と津山市街地の遠望(南から)

東側の石室と出土遺物(東から)
写真2 東側の石室と出土遺物(東から)

東側石室の須恵器枕と管玉(東から)
写真3 東側石室の須恵器枕と管玉(東から)

西側の石室と出土遺物(西から)
写真4 西側の石室と出土遺物(西から)

その1(令和元年5月2日更新)

 昨年度に引き続き、桑山〈くわやま〉古墳群の調査を行っていますが、今回は古墳群の一角で発見された炭窯〈すみがま〉を紹介します。長さ約10mの細長い形で、窯の床と壁が高温で固く焼け締まっています。本来は全体にかまぼこ形の天井が付きますが、この遺跡では崩れて失われています。窯の床は緩やかに傾斜しており、低い側が焚き口、高い側が煙出しになります。窯の側面には焼けた木炭を掻き出すための横口がいくつも開けられますが、この遺跡では残りが悪くその痕跡のみが認められました。
 このような窯は、7~8世紀頃の例が多く、製鉄用燃料の木炭をつくるための炭窯と考えられています。この遺跡の付近でも古代の製鉄が行われていたのでしょう。

炭窯(手前が焚き口、奥が煙出し)写真
炭窯(手前が焚き口、奥が煙出し)

煙出し、横口の痕跡写真
煙出し、横口の痕跡

炭窯の復元図写真
炭窯の復元図